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兵庫県


ひめじじょう



大天守(国宝)と小天守(国宝)

西の丸から見た天守
(連立式望楼型天守)
姫路城 (兵庫県姫路市本町)
天守:現存天守(国宝)  日本100名城  三大名城  世界遺産
戦国期を中心とした主な歴史
1346年 播磨守護・赤松円心の次男・貞範によって築城されたとされる。
1349年 貞範が本拠を移し以後、赤松家の一門・小寺家が城代となる。
1441年 嘉吉の乱。
    赤松満祐・教康親子が山名宗全らに討伐され城は山名家の支配下に入る。
1467年 応仁の乱。
    満祐の弟の孫・赤松政則が山名家から城を取り戻す。
    以後、再び小寺家が城代となるが、小寺家は次第に独立化していく。
1545年 小寺則職が御着城に移り、小寺家臣・黒田重隆が城代となる。
1564年 黒田職隆が城代となる。この頃までに中世城郭に拡張したと思われる。
1567年 黒田孝高(官兵衛)が城代となる。
1577年 黒田孝高、二の丸に移り本丸を羽柴秀吉に譲る。
1580年 黒田孝高、羽柴秀吉に城を献上。秀吉により近世城郭へ改修される。
1600年 池田輝政が入封。大改修により、現在の天守となる。
1617年 本多忠政忠勝嫡男)が入封。
1618年 忠政嫡男・忠刻に嫁いだ千姫徳川秀忠娘)の化粧料で西の丸を整備。

(メモ)

天守を含め、城郭の大きさと広さには圧倒される。城主の入れ替わりが多く、具足、刀剣といったお宝がないのだけが残念。
播州皿屋敷の舞台。お菊井戸が存在し、井戸のある曲輪の石垣は黒田孝高も関係しているといわれる。
菱の門(重要文化財) いの門(重要文化財) 黒田官兵衛ゆかりの石垣
化粧櫓(重要文化財) ヌの櫓(重要文化財)と西の丸長局 上から見た西の丸
平成の大修理



ほうおんじ

  佐々成政の供養塔  恵光山法園寺 (兵庫県尼崎市寺町)
 1561年創建と伝わる浄土宗の寺院。佐々成政終焉の地。

 1587年、九州征伐での功で成政は肥後一国を与えられたが、検地を強引に推し進めるなど急速な国内統治が国人たちの反発を招き一揆を起こされてしまう(肥後国人一揆)。この一揆を成政は自力で鎮めることができず豊臣秀吉に責を問われることになる。
 
 成政は大坂まで出向き謝罪を試みるが、秀吉の怒りは収まらず、法園寺に幽閉され、安国寺恵瓊らの助命嘆願も叶わず切腹を命じられた。成政は切腹の際、短剣で腹を一文字に引いたあと、悔しさのあまり臓腑を投げつけたという。

 現在の法園寺は成政が切腹した時とは場所が変わっている。元は現在の尼崎城の縄張り内にあり築城に際して移転した。境内には成政の供養塔があり大事にされている。